昭和51年8月29日 朝の御理解      (末永信太郎)

御理解第31節
 信心する者は木の切りかぶに腰をおろして休んでも、立つ時には礼をいう心持ちになれよ。



 信心をさせて頂く者は、心持ちを作る。一切のものにお礼の言えれる心持ちを作ると、ことだと言うても良いくらいです。ね、一切のものにも、または事柄にも礼を言うその心持ちが神様の心に叶うのです。礼を言わねばならん、というのではない。礼を言う心持ちを作るということです。ね。心持ちを作るという、例えば朝、目が覚める。今日は、この家に休ませて頂いておった。しかも、夜具も使わせて頂いておった。
 第一、本当に雨露を凌がせて頂いたということ。ね。しかも、あの、まあ、私の部屋は冷房がしてありますから、こんな涼しい部屋で一晩ぐっすり休ませて頂いた、と。部屋を出ます時に、その部屋にお礼を言い、起きた時に枕にも夜具にもお礼を言う。それが、自分の家に住み、私の夜具を使い、というところにはお礼を言う心持ちは起きて参りませんよね。もう、当然のこと、当たり前のこと。けれども、段々、信心が分かれば分かるほど、一切が神様の御物であるということが分かれば、家も、ね、夜具も一切が神様からの授かり物というよりも、預かりものなんです、借りておるんだ。
 一宿一飯の恩義というようなことを申します。ね。昔の遊侠、いわゆる遊び人の人達の、まあ、義理人情の世界でも、その一宿一飯のために、ね、場合によっては命でも捨てねばならんという義理が生じておる。ね。食べ物でも飲み物でもそうである。私の物でもないものを飲ませてもらい、私の物でもないものを食べさせてもらい、本当にご馳走になりましたであり、本当にお世話になりましたということになります。
 当然なこととして、お礼を言うのが当たり前。ね。教えを頂いて、一切が神様の御物だと分からせて頂けば頂くほど、ね、それを頂き、または使わせて頂いたのですから、ね、立つ時に礼を言う心持ち。ね。そこで休ませて頂く時にも、今晩も、まあ、泊めて頂くと、今晩もこの部屋を使わせて頂く。今晩もこの夜具を使わせて頂くという、私は願いがいると思う。ね。
 願うておって、初めてそれを見たりするお礼の心というのが出来てくる。ね。一切が神様の御物であると言い、また分かっておりながらもです、分かっておらん証拠には一色一般の恩義も感じない。なるほど、お食事を済ませた時には、手を合わせて、ね、神様にお礼を言うとる。ね。
 けれども、本当の言うならば、心持ちという、ね、そういう例を言うその心持ちが出けずに、ただ教えられておるから、頂いた後に有り難うございました、ご馳走様でしたと言うのと、その、そういうお礼を言わなければおれない心持ちが頂けるということが、信心です。ね。
 心持ちなんです。ね。そういう心持ちになれよ、と。ね。他人の家に泊めてもろうたり、他人の家で食事のお世話になったら、必ずやはり、ね、お礼を言わなければおられない。また、言わなければならない。ね。ただ自分の家と名がついておるだけで、それが言えないということは、いかに神様の借り物であるとか、御物であるとかということを心から思ってない証拠である。だから、その心持ちが出ないのである。
 私は、毎朝起きて、それから部屋を出て、ふすまを閉めて、また回れ右をしてから部屋にお礼を言う。ね。本当にお世話になりました。そすと、その無言の声が聞こえて来る。ね。またこちらへ見えたら、どうぞお寄り下さいといったような。ね。もう、こっちに見えたらいつでもいいですよ、私の方へ泊まって下さい、というような。ね。私は信心の一番大事なことは、自分の心持ちが変わって来ることだと思うです。ね。
 それの一番大きいものが、ね、全てにお礼を言う心持ちが心から出けて来るということだと思います。ね。一宿一飯どころではない、それとは反対のいわば事柄。木の切りかぶに腰を下ろしてもということは、もう、湯の中では役に立たない。ね。もう、言うならむしろ、邪魔になるようなもの。ね。だから、部屋を借りたとか、お食事を呼ばれたとか、これはもう、当然のこととしてお礼を言う心持ちが出来て来なければなりませんが、それとは言うなら反対のこと。ね。
 日に何回かそういう方達の御取次をさせて頂く。難儀な色んな人間関係とか、または色んな問題。いわゆる、難儀な事柄に遭って、そして、助けてもらいたいと言うて参って来る。ね。だから、本当にもし、あなたにその難儀なことやらがなかったなら、おそらくあなた方が合楽までもお参りをして来るということはないでしょう。そこに、難儀を感ずる、助けて頂きたい。ね。
 そういう心で合楽にお参りをして来るのでしょう。ね。もちろん、それが、願いが成就しておかげを頂く間に、ね、2回3回、5回と段々お参りして来るうちに信心がこんなにも尊いもの、有り難いもの、人間が真実幸福になることの為には、信心させて頂かなければなり得ない、頂き得ないということが分かって来る。すると、初めてああいう難儀な問題があったおかげで、合楽に御神縁を頂いたということになる。
 してみると、その難儀な問題と思うておったことも、また、御深慮であった、おかげであった、と。本当に、こういう難儀から早く脱皮したい、早く逃れたい。もう、言うならば世の中の木の切りかぶのようなもの、いらんもの、邪魔になるものと思うておったけれども、そのことのおかげで信心が段々分からせて頂くようになった、と。
 そういう体験が、なら、次々と頂けて来るようになると、ね、教祖様の御教えの中に、お言葉の中に、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当とは真実と書いてある、真実の信者じゃと言うのです。ね。初めの間は難儀な問題だと、いらんものだと、木の切りかぶのようなものだと思うておったけれども、おかげを頂いてみると、そのいらんもの、その難儀と思うておったその難儀様のおかげで御神縁を頂いた、信心が私からせてもろうた、天地の親神様のお心も段々分からせて頂くようになり、その天地の親神様のお心に添え奉る生き方が、段々身に付いて来た。ね。
 もう、その辺に至って参りますと、難儀な問題も難儀なことも、痛い痒いのこと一切がです、ね、そのことのおかげで御神縁を頂いたのであるから、そのことがおかげの元であったと分からせてもらうようになると、難儀な問題が起こる、即それもおかげであるということが分かって来る。これは難儀な問題じゃないのだ。これを通して、このことを通して、ここを分かってくれよ、あそこを改めてくれよという御深慮であることが深く広く分かって来るようになる。ね。だから、神様のその深い広い、その心が分かって来るということは、自分の心の中に深く広く、有り難いという心が広がって行くことになる。ね。一宿一飯。ね。
 それで、言うなら、命にかけてでも、その恩義に対してお礼の印、恩義になったその印を現すという、これは侠客の人達の義理、仁義であります。信心させて頂く者は、私は、ね、そういう人達よりも、もっと素晴らしい、ね、恩義が感じられるようになる。そこから初めて、有り難い、または勿体無いという心が出来て来る。言うならば、その有り難い、勿体無いの心持ちが生まれて来る。
 その有り難い、勿体無いの心持ちで一切の事柄が、ね、受けられるようになった時、初めて本当の信者じゃということになる。あれもおかげであった、ね、過去のことも、あれということは過去のこと。これということは、現実踏まえておるということ。ね。いよいよ、あれもおかげであり、これもおかげであると分からせてもろうて、もろうただけでは出来ん、そこにはお礼を言わなければおれない有り難い、勿体無いの心持ちが生まれてくる。
 親神様なればこそ、神様がこういう難儀なところを通らせてでも分からせて下さろうとするお心が分かって来る時に、ね、感泣しなければおられない、御神意に応え奉らなければおられない、止むに止まれぬ心も、いわゆる心持ちが生まれて来る。ね。だから、まずはです、当然のこととしてお礼を言わなければならない事柄に、先ず目を開かなければならない。それは、一切が神様の御物であると、お道の信心させて頂くなら分からなければならん、また分かってもおる。
 自分の家に座って、自分が働いた金で、自分が働いた金で洋服を買うたり、食べ物を仕入れて生活をしておる、というものが心の底にあるから、分かっておってもお礼が言えん。ね。だから、私はそれを分からせて頂くためにです、いわゆる、立つ時に礼を言う心持ちを、(一つ?)ぜひ作らなければならない、ということである。ね。布団を畳む時に、先ず拝んで頼む。ね。
 家を出る時に、一遍ふり返ってみて、はあ、昨夜はお世話になりましたという、拝むけいこをさせてもらわなければいけない。ね。そこに、いよいよ礼を言う心持ちが本当なものになって頂けて来る。心持ちを作るということ。ね。話を聞いて、なるほど自分の物というものは一つもなか。なるほど、神様からの授かり物であったり、ね、お借りしておるようなもんだ、と。
 御理解三節にあるように、氏子の家屋敷、ね、それこそ神社仏閣の境内であっても、みんな神の地所とこう。その、みんな神の地所であるものを自分の地所のような思い方をする、自分の家のような思い方をするところに、心持ちが生まれないのである。ね。それが、大きなめぐりを作って行く元にすらなるのである。
 思い違い、考え違いである。ね。その思い違い考え違いが積もり積もって、難儀の元を作ると御理解三節にはありますです。ね。だから、そこのところを、話を聞いてアンタのモンと思うとるけれども、アンタの物じゃないよ、と。その道理を聞かせてもらうと分かるんだけれどもです、不思議と心持ちが生まれない。
ね。その心持ちが生まれて来るまでに、だから、一切を一つ本気で拝む気になれ。
 靴を履く時には靴を拝め、脱いで上がる時にはお礼を言え。最近、お便所を拝む、と。ね。今まで、お便所に造花をされた、と。けれども、拝むようになったら、造花では勿体無い。ね。言うなら、便所ん中の神様に対して、毎日水もかえ、ちょうど御神前のお花の水をかえるように、水もかえる、新鮮な庭にある草でも取って来て入れる。それも、ただ自分が見るためではなくて、便所に言うならば奉る気持ちでそれをさせて頂く。ね。長年の(秘訣?)が、もう嘘のようにおかげを頂いた。
 その話を聞いて伝えて、ね、アンタが辞が悪いならば、ね、便所をお掃除を始めなさい、便所を拝みなさい。それでも、あなたもう、自分方ん便所ならばってん、共同便所、私の方は共同便所だから、と。ね。だから尚更のこと、便所を拝めれるようにきれいにしなさい、と言われて実行した。おかげで、辞が治ったというようなおかげを皆が頂いておる。ね。拝むということは、そういう素晴らしい働きが生まれて来る。
 ましてや一宿一飯ということを私が申しましたが、自分の家じゃない。ね。昨夜一夜、この部屋を貸して頂いたんだと、この布団を貸して頂いたんだと、ね、思うたらそれにお礼が言えなければならない。そういうお礼を言う心持ちを作れと言うのである。それは、考えてみればみるほど、当然のことなのである。ね。
 そこで、当然とは思われない、言うならそれとは反対のこと。自分に辛い思いをさせた、または自分にとっては疫病神のように思うておった、その厄病神に対してでも、ね、それに事柄であるならば、御の字をつけて、それを御事柄として受けて行くということをです、ね、そういう難儀のおかげで合楽に参って来たんじゃないか。そういう難儀な問題があったから、神様という気になったんじゃないか、と。
 してみると、その難儀様のおかげで、困ったことのおかげで御神縁を頂いて、こういう素晴らしいおかげの頂けれる世界に出て来たんだ。だから、そういうことにもお礼が言えれるようになった時、真実の信者じゃということになる。だから、真実の信者になる前提として、当然のこととして、お礼を言わなければならないものにお礼を言うところから始める。ね。
 そして後に、ね、これはお礼を言う段のことではない、困ったことだ、難儀なことだ、と。それが、人間関係で言うならば、あん奴と思うておったのが、あの人であり、あのお方のおかげでということになるのです。それを繰り返して行くうちに、なるほど、あのお方であるということが分かる。
 はあ、あの人こそ神様であったということが分かる。だから、その場で、ね、もう、あれもおかげじゃい、後から気付くのじゃない。即、そのことを合掌して受けれれるようになり、ね、初めて真実、ほんとうの信者じゃという資格が与えられるのじゃないでしょうか。
 もちろん、真実の信者になれば、真実のおかげが伴うことも、これはもう、絶対のものです。本当な信心、本当な信心、真の信心、真の信心とこう言うが、自分は真の信心をしておるつもりであっても、真のおかげが伴わないならば、それは真の信心とは言えない。自分は真実の信者のように思うておっても、あれもおかげであった、これもおかげであったとお礼を言う心持ちが生まれて来る。
 初めて、ね、真実な信者にならせて頂いたということが分かる。もちろん、その真実のこととか、真実の信者と言うてもです、これはもう、限りのないことである。先ず、当然お礼を言わなければならない事柄にです、または物にです、お礼を言う心持ちを作らなきゃいけません。
 その為には、一つ本気でそれを拝まなければいけません。それこそ、ね、自分の家に、自分の家を出る時に、回れ右をして拍手して、本当にお世話になりましたとお礼を言う、私はそういうことがね、あの、実際出来れる信心を頂きたい。ね。そして、そこからです、ね、またこちらに見えたら寄って下さい、また使うて下さいよというようなものが返ってくる。ね。そこに、有り難い、有り難いという心は自分で有り難くなろうと思うて有り難くなれるのじゃない、神様が与えて下さるのである。ね。そこから初めて、礼を言う心持ちが生まれて来る。しかも、今まで、ね、それは難儀な問題だ、困ったことだと思うておった事柄の中にも、ね、神様がこのようにして自分をお育て下さるんだということが分かって来ると、ね、そのことに対しても、その人に対してでも、ね、礼を言う心持ちが生まれて来る。初めて、真実の信心が分かったということは、そういうことが分かることだと、私は思う。どうぞ。